やりくり七重ブログ。 『ブログ〜鵜の目鷹の目,旅の目で』

田舎で働くプログラマーの日記

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忍阪(桜井市)の Hさんにお願いして、お盆にご先祖様をお迎えする「迎え火」を拝見させていただいた。 忍阪では、ご先祖は 13日の早朝に迎えて、 16日にお帰りになる。 宗派とは関係なく、垣内(かいと・村の中のグループ)ごとにお迎えする場所が決まっている。 12日には祭壇を整え、玄関先には「がきんど」(施餓鬼)も用意して、ご先祖のお迎えに出かける。 ご先祖は祭壇に、餓鬼道は玄関先でという事である。 これは玄関前のガキンド。 餓鬼道へのお供え 細い道を粟原川に向かって下る。 旧道沿いの玉津島神社と聞いていたが、どんどん下ると右手にはちょっとした砂盛があり、左手には、お盆には咲くというみそ萩(禊萩)の花、これが盛りだった。 砂盛に線香を立て、手を合わせる。 そして、煙がただよう線香を家に持ち帰る。 先祖の霊は線香の煙に乗って家に帰られる。 砂盛からは忍阪の共同墓地(埋め墓)が見渡せた。 「お墓まで迎えに行かねばならないが、ここで線香を立てて迎えます。 この道はソウレン道(葬斂道)で、お葬式の時に送った道、お盆にはここまでお迎えに出ます」と Hさんは話される。 Hさん宅には木彫りの大師像が 21体も祀られているのもすごい。 この像は「太師講」の名残とのことである。 お線香を立て、先祖の霊に呼びかける方向は村の共同墓地である。 忍阪の共同墓地は「埋め墓」で、各家の墓石が立てられているお墓の方向でないことも注目される。 念のために申し添えておけば、忍阪には埋め墓(木製の墓標。 共同墓地)と参り墓(各家の石墓)がある。 遺体の埋葬地(埋め墓)と墓石を立てる墓地を分ける墓制で、ご遺体は村の共同墓地に亡くなった順に埋葬されていた。 これを両墓制という。 この制度は土葬の時代には有効な制度だったが、火葬に切り替えられてからは、廃れていく。 しかし、 忍阪ではいまでも両墓制が行われている。 もちろん土葬は行われず、お骨を納めて卒塔婆を建てる…。 忍阪では、墓参の墓は「石墓」と言い、墓石が密集した二か所の墓地がある。 忍阪には古代の古墳があり、近世の墓制が残り、現代もある。 忍阪は奥が深い… 6月 28日は外山不動院の大祭である。 外山不動院は毎月 28日に「護摩祈祷会」を厳修されているが、一年に一度の大祭は6月である。 外山中筋町は子供会も含めて、町挙げての行事でもある。 「和の一と」の和太鼓の演奏があり、護摩法要が行われる。 真言宗である。 国道を挟んでしまったので見えにくいが、宗像神社の参道に西面している。 宝形造本瓦葺きのお堂があり、古くからの由緒も感じさせられる。 元々は外山にいた長谷川党が建てたという長谷ケ堂の名残のとのことで、付近には経蔵山・ハセガ堂の地名が残っていると聞いた。 ご本尊は不動明王坐像で、国により重要文化財に指定(昭和 63年 3月)されている。 像高85㎝。 左目を閉じ、頭頂に沙 髻(しゃけい)を表す平安後期の不動明王の姿である。 檜材を用いた寄木造で、現状はほぼ古色を呈しているが、当初の華麗な彩色をとどめており、条帛の背面部や裳の一部にに切金文様が認められる。 二重円相を透かした火炎光背と、七重の瑟々座が揃う王朝様不動明王像の本格作は、奈良県下でも珍しい。 (境内桜井市教育委員会掲示) 左目を閉じている。 不動明王で、左眼を閉じ右眼を開けて睨むのを「阿遮一睨 あしゃいちげい 」と言うそうである。 「すべてを見通すぞ」という感じですごみがある。 今日はそうめんのお接待が (具が乱れているのは、少し食べたから) 毎月 28日の午後 2時から護摩を焚いており、地元をはじめ遠方からの信者も熱心に参拝されているとのことである。 談山神社、6月第二日曜日は鏡女王祭である。 今年は6月11日となる。 午前11時から東殿にて祭祀を行う。 鏡女王祭 前日(土曜日)には、桜井市忍阪の生根会により鏡女王忍阪墓前祭がおこなわれた。 鏡女王忍阪墓は、生根会(忍阪区老人会)によって草刈りなどの日常的な管理が行われていて、談山神社とともに祭祀を行うのである。 祭は一年に一度、東井(ひがい)会長をはじめ、役員のみなさんの気合は十分である。 談山神社からは宮司と黒住さんが参加。 神社と忍阪のみなさんで、天智天皇の妃、藤原鎌足の正妻、万葉歌人でもある鏡女王の生涯をしのんだ。 鏡女王の歌碑は鏡女王墓をしばし降りた、舒明天皇陵に差し掛かった川の中に置かれている。 「秋山の 木の下隠 このしたがく り 行く水の 我れこそ益さめ 御 み 思ひよりは」で、天智天皇との思いを歌う歌である。 犬養孝先生の揮毫である。 多数の識者に書いてもらうという趣旨で歌碑建設を進めてきた努力の結果でもあるが。 鏡女王忍阪墓 被葬者は額田王の姉で天智天皇の妃、のちに中臣鎌足の正室。 万葉歌人の鏡女王の押坂墓とされている。 談山神社が管理しており、忍坂の生根会が清掃奉仕をしている。 平安時代前期に編纂された「延喜諸陵式」には舒明天皇の陵域の東南と書かれている。 鏡王女(かがみのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇12年7月5日(683年8月2日))は、飛鳥時代の歌人。 藤原鎌足の正妻。 『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。 『興福寺縁起』・『延喜式』では鏡女王。 『興福寺縁起』では藤原不比等の生母(後世の創作とする説もある)。 また後述するが「鏡王女」と「鏡姫王」を別人とする説もある。 (ウィキ) 忍坂【おしさか】 奈良県桜井市の東部,外鎌 とかま 山西麓の古代以来の地名。 恩坂,押坂とも書き,〈おさか〉ともいう。 遺称地である桜井市忍阪は〈おっさか〉。 地名〈忍坂〉は《日本書紀》神武天皇即位前紀や垂仁天皇39年10月条にみえ,後者の記事によるとこのとき大刀1千口を新たに作らせ,〈忍坂邑〉に収蔵したのち石上 いそのかみ 神宮(現奈良県天理市)に移している。 (百科事典マイペディアの解説) これをFBでも紹介したら石亀嶽さんから昭和40年代の忍阪墓の写真が送られてきた。 「門だけ・・植わっているのは松」とのことである。 犬養孝が「松の木が19本」と書いたとおりである。 村人によると、「松は50年までにはすべて枯れた。 杉を植えた」である。 昭和40年代(石亀嶽さん提供) 現在の墓。 杉林 これが一号墳である。 白状するが今回は到達。 3回目だった。 前回の敗退を教訓して今回は登山靴。 森本運輸の駐車場から入る。 もちろん事務所には声をかけて許可を得る。 一回目はこれも知らず、国道から無理矢理、登ったのである。 道なりに登る。 道標がある。 今回も右に折れた。 青い線である。 こちらにはもう一個、道標がある。 そこから稜線へ直登である、石室の入り口が無い、小高い山に上がった。 くるりと周りを見てみると、丘尾切断型の円墳の上にいるように思える。 西に下りてから南に回ると、ありました。 一号墳の入口 内部から外をみてみると 西北の方向に二号墳、これも戸惑ったが発見できた。 しかし、これは狭い。 3メートルくらい匍匐前進すると中は広そうだが、これは勇気ある撤退かな。 下りの道でよく確かめてみると、笹やぶも赤い線に沿って踏み分けがあった。 桜井市の埋蔵文化財センターは「桜井市の横穴石室を訪ねて」を発行している。 100ページくらいのリーフレットである。 このリーフレットをペラペラとめくるとムネサカ古墳がとても気になったのである。 忍坂から女寄峠に登るR166の左側の山手にあるという。 終末期の大型円墳と石室、これが二つ並んで残されているのである。 石室の石積みは玄室・奥壁とも二段積み、羨道は一段積みで、ほぼ切石状態で漆喰も使われているとのことである。 このような石材の構成や規模は、明日香村の岩屋山古墳とほぼ同一でである。 同じ設計図を用いて作らたとも考えられ、石室を作った工人は同じだったのかもしれない。 ムネサカ古墳群(桜井市大字粟原字峯坂) 談山神社は鏡女王(かがみのおおきみ)を東殿に祀っていて、6月の第二日曜日午前11時から鏡女王祭りを行っている。 その前日の午前10時から、忍坂の鏡女王押坂墓において墓前祭がおこなわれる。 鏡女王忍坂墓 鏡女王祭を支えるのは、忍阪の生根会である。 生根会、鏡女王墓を清掃管理する忍阪区の老人会である。 年に3回、鏡女王墓の外周などの草刈りをされている。 「もう、50年になる。 区の道づくり(川掃除)とは別に行っている。 昨日は朝五時から。 そして5月と10月」と、老人会長が言われる。 この生根会が墓前祭を行うのである。 忍阪生根会。 氏神様から命名されたようである。 こちらの氏神、忍坂坐生根神社は三輪の大神神社と同じで本殿がなく、忍坂山を神体山としていて、拝殿・鳥居・玉垣のみの神社である。 神社の頭屋記録、「忍坂庄神事勤帳」は延徳4年(1492年)から残るという。 (桜井風土記 忍坂生根神社による) ちょっと寄り道して、忍坂生根神社の境内である 旧街道筋から舒明天皇陵、鏡女王墓に入った所(ただし新道)にちご石。 神武東征の時に、この石の隠れて戦うという伝承を持つが、普通に神籠石として、神の依り代として崇敬されたとみるのが自然である 舒明天皇押坂内陵。 八角墳の始めのものとされる 舒明陵をこえると、鏡王女の歌碑がある。 「秋山の樹(こ)の下隠(したがく)り 逝(ゆ)く水の われこそ(ま)益さめ 思ほすよりは」(巻2-92)鏡王女 歌碑は犬養孝の揮毫である。 鏡女王、天智天皇の后だったが、鎌足の正妻になったとされ、。 不比等の実母と言われ、興福寺の前身の山階(やましな)寺を創建したと言われる。 鏡女王押坂墓前祭。 談山神社の長岡宮司が祝詞奏上 墓前祭をおえて 二年前の談山神社の鏡女王祭のリンクは 最後に、鏡女王上墓の奥の大伴皇女押坂墓に。 こちらまで登って振り返ると多武峰が正面である 源(木曽)義仲ってどう思いますか? 長野県で聞いたらプラスイメージだよね。 北陸で聞いてもプラスイメージだと思う。 京都では乱暴者ということで、はっきりマイナスイメージでしょう。 それで奈良では、どうなんだろう? 秋原北胤(ほくいん)監督が主宰する東京のカエルカフェが、義仲の映画、「義仲穴」(ぎちゅうけつ)を作成する。 秋原監督は「義仲の映画は奈良でこそ撮りたい」と奈良でのロケを考えている。 「奈良の大仏を焼いた平家を追い払ったのは義仲。 義仲は奈良で好感が持たれている」というのが、その考えの土台である。 さまざまな候補地が奈良県下であったが、秋原監督は桜井市の等彌神社を見て「ここがイメージ」と言い切り、ロケを等彌神社で10月28日に行うのである。 等彌神社の境内 秋原監督は「特定のスポンサーに頼らず、地域住民を巻き込む幅広い皆さんのご協力で映画をつくる。 だから協力者、出演者の確保に私も力を尽くし、ワークショップという手法で広げている」と語り、「映画の魅力は大きく、映画作りには地域おこしの力がある」と熱心に語られる。 これは桜井の活性化、町おこしに力を入れる等彌神社の佐藤宮司の思いと波長がピッタリである。 「9月30日には、ワークショップ(衣装合わせ、演技の練習)を等彌神社でやろう」という具合に話はとんとん拍子に進んでいく。 監督と出演者の玉串奉奠、撮影場所の確認、撮影シーンの確認なども終えて、みんなで記念撮影である 秋原監督は「桜井市役所への表敬訪問も行った。 監督は元田清士副市長と30分にわたって懇談。 元田副市長は映画が趣味と見えて、意見の交換、質問も具体的で監督の思いが通ずる懇談となった。 映画ができてからのことではなく、映画作成、映画のロケへの桜井市民の参加をさらに増やしたいものである。 元田清士副市長との懇談、左から元田副市長、倉本明佳聖林寺住職、秋原冬胤監督 「義仲穴、桜井等彌神社ロケ」、いよいよ始動である。 敬称略ですが和田萃 安田真紀子 浅田隆というお名前で、なにか連想ができますか? 7月から9月にかけての桜井市立図書館の連続講座の講師の皆さんお名前です。 申し込み方法はEメールまたは往復はがきに「講座名・住所・氏名・電話番号を書いて、申し込む」とある。 メールアドレス library city. sakurai. nara. jp 住所は633-0051 桜井市河西31番地である。 先着順で70人、対 象は一般で、資料費(講座費)は300円である。 図書館HPから。 一部略 和田萃さんはご承知のとおりである。 浅田隆さんは、奈良まほろば検定の公式テキストの執筆者の一員でもあり、ユーモアあふれる軽快な語り口でとても聞きやすい。 安田真紀子さんは、奈良町からくりおもちゃ館の館長さん。 からくりおもちゃ館は江戸時代のからくりおもちゃに実際に触れて遊ぶことができる施設として有名で、古いおもちゃの復元に取り組んだきた方と聞いた。 僕もこの講座はやりくりつけて出席しようと申し込んだ。 11日の朝に図書館に電話で確かめたが、「まだ空きがあります。 大丈夫です」とのことだった。 藤和鎌足をご祭神とする談山神社は正室の鏡女王(かがみのおおきみ)を東殿に祀っている。 毎年、6月の第二日曜日午前11時から鏡女王祭りを斎行する。 6月9日。 東殿での鏡王女祭 最近は室生だ、三宅町だとブログの幅を大きく広げてしまっているが、今日は地元の談山神社、鏡王女祭のことを書いておくことにする。 三つほどである。 一つは天武天皇(大海人皇子)と鎌足公、鏡王女とのことである。 談山神社の長岡宮司は祝詞のなかで鏡王女の万葉歌を紹介した。 万葉歌が入っている祝詞は僕は初めて聞いた。 そして、直会で宮司は天武天皇(大海人皇子)と鎌足、鏡王女のことを話された。 鎌足公は本殿、鎌足の正室の鏡女王は神社東殿に祀られている。 この鎌足公と鏡王女、天武天皇がどんなに信頼したか、大事にしたかが日本書紀に記されている。 「天武12年7月4日、天皇 鏡姫王(かがみのおおきみ)(鎌足の嫡室)の家にお越しになり、病気を見舞われた。 5日、鏡姫王は薨じた。 」 天武天皇は鏡女王の亡くなる前日に見舞いをしているのである。 「天智8年10月15日、ひつぎの皇子(大海人皇子・天武天皇)を藤原内大臣(ふじわらのうちのおおおみ)の家に遣わし、大織冠(だいしょくかん。 冠位の最上位で藤原鎌足だけが授かった)を授け、藤原の氏を授けた。 16日、鎌足は薨ずる。 」である。 鎌足公の亡くなる前日にも見舞いに訪れていて、いかに鎌足を信頼していたかがわかる。 二つ目に、「本日、鏡女王のご神像の御霊込めを行った。 福禄寿神を彫っていただいた斉部哲夫大阪芸術大学教授にお願いをして、鏡女王のご神像ができました」と紹介があった。 ひざまずき、雲形の鏡を抱いたご神像はあたかも本殿を見上げるような姿勢で少し上向きである。 祭祀の終わりに、斉部先生に「何歳の鏡女王ですか」とお聞きすると、「年齢はなしです。 永遠の少女というか」というのが先生の答えである。 左が斉部哲夫さん、右が室原慶和さん 三点目である。 鏡女王祭、参列者の中心は生根会の会員とホテル日航奈良のツアーの参加者だった。 生根会、鏡女王墓を清掃管理する忍阪の老人会である。 忍阪の氏神様でもあり、山をご神体とする忍坂坐生根神社の名前をもらっての生根会である。 「鏡女王忍坂墓と生根神社の清掃が生根会の仕事です。 一昨日は鏡女王墓の草刈り、昨日は墓前祭を行いました」と言い、驚くほど行動的な老人会である。 「鏡女王祭は忍阪の鏡女王墓で行われていたが、それは談山神社東殿で行うようになった」と聞いたことがあったが、移されたのではなく、談山神社でも斎行することになったとのことである。 墓前祭が継続されていたことは知らなかった。 鏡女王祭は6月の第二日曜日の午前11時から。 墓前祭はその前日の午前10時からである。 さっそく草刈りの終わった忍阪の鏡女王墓を訪れてきた さて、土曜日は奈良交通の万葉ツアー、桜井・長谷コース、僕の準備も、これでいよいよ完了である。 忍阪の鏡王女(かがみのおおきみ)墓を訪ねた。 舒明天皇陵のすぐの奥である。 桜井で記紀万葉ならまずは山辺道である。 初瀬の谷も双璧であり、磐余もそれに匹敵する。 そこで「忍阪を忘れちゃいませんか」という話である。 先日の僕の「天理・桜井の四季折々」の講演でも、忍阪は触れていない。 しかし、「万葉の旅」(犬養孝著)で桜井を回るならば、忍阪は必須である。 舒明天皇陵がある。 鏡王女(かがみのおおきみ)墓がある。 大伴皇女(欽明天皇の皇女)陵がある。 それから衣通姫(そとおりひめ)伝説にまつわる社がある。 鏡王女の歌碑が犬養孝の揮毫である。 「秋山の樹(こ)の下隠(したがく)り 逝(ゆ)く水の われこそ(ま)益さめ 思ほすよりは」(巻2-92)鏡王女である。 天智天皇の后だったが、鎌足の正妻になった。 不比等の実母と言われ、興福寺の前身の山階(やましな)寺を創建したと言われる。 「あきやまのこのしたがくり」の歌碑 鏡女王墓に忍阪区が立てた案内板。 史跡紹介の忍阪区(町内会のこと)の努力はものすごい。 大きな駐車場もできていた 衣通姫(そとおりひめ) 磐媛皇后(いわのひめおおきさき)の歌に 「君が行(ゆ)き 日長(けなが)くなりぬ 山たづね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ」万葉集(巻2-85)がある。 忍阪にはこの歌の元歌を歌ったという(古事記による)衣通姫の故地がある。 「君が行き 気長(けなが)くなりぬ やまたづの 迎えは行かむ 待つには待たじ」古事記 (あなたが行ってしまってから時間が経ちました。 もう待てない、私が行きます)である。 万葉集の歌とほぼ同一である。 外通姫のことを簡単になぞる。 允恭天皇(第19代天皇、五世紀前半)、皇太子の木梨軽王(きなしのかるのみこ)は即位前に同母の妹、軽郎女(衣通姫)と密通して伊予の道後温泉に流される。 それを追う衣通姫、軽王と歌を交わし、のち自害するという話だ。 美しさが衣を通してあらわれるほどの美女という衣通姫の悲恋の話で、忍阪には、その姫の誕生の故地(姫が使ったという産湯の井戸)が残されている・・・という話である。 衣通姫、伝承の残る玉津島明神 こんな忍阪、万葉集で案内すれば、話は無限である。 何本かの好きな樹の話である。 わが家の木ではなく、よその人が丹精を込めている樹である。 一番は、忍阪山口神社(桜井市赤尾)の楠。 延喜式神名帳に記された大和の山口の神々は14社。 忍阪山口神社はそのうちの一社である。 この境内に素晴らしいクスノキの巨樹が生きている。 「室町幕府の第三代将軍足利義満は、京都の北山に金閣寺を造営するにあたり、天井板を一枚張りにしたい為に、この神社の楠の巨樹を切り出したと言われています。 現在境内にある楠の巨樹は、この時切られた楠の二代目と言われています」(境内の掲示)。 このクスノキには圧倒される。 枝分かれというより、2~3本が接着したという感じだが、それでもすごい。 名古屋の熱田神宮は楠の巨樹(大きい7本は名前が付いている)で有名だが、忍阪の楠は引けを取らない。 接着と言えば、八ツ房スギ(宇陀市菟田野区佐倉)もそうである。 桜実神社の境内、社殿に隣接した東の高台にあり、根幹の接着によって8株くらいの杉が四方に伸びている。 全体の周囲が14mもあり、天然記念物に指定されている。 ここは、太い直立樹が枯れたのが残念だが、地を這うような樹勢の強い大樹もあり、何度見ても感動する。 先日、神楽岡神社(宇陀市大宇陀)を訪れた。 春に「大海子皇子東国発ち」というツアーを案内したが、その時訪れるべきところだった。 気になっていた。 そこであっちゃんと先日訪れた。 普通の参拝と見学だが・・・そこで、杉の巨樹を見た。 拝殿と本殿の間だから、うっかり見落とすところだった。 最近、気に入っている三本の巨樹である。 いつでもそうだ。 大木から力をいただく。 樹の声を聴くと、力がいつでも湧いてくる。

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酷暑を凌ぐ音楽──ドヴォジャークのセレナードの巻 : 私たちは20世紀に生まれた

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沼辺信一 [Shin-ichi Numabe] 1952年東京に生まれ、 1975年まで埼玉で暮ら す。 大学を中退後は 上京して独り暮らしを 始め、多くの友人と出 逢う。 生活のためバイト に精を出すうち、編集 プロダクション見習とし て書籍編集のイロハを 身につける。 1988年、 取材で初めて訪れた外国 都市がレニングラード だった。 1989年から2003年 まで美術館の学芸員。 ジョゼフ・コーネル、 モネ、ルノワール、 若林奮など の展覧会を担当。 引退後は海辺で悠々自適の生活を旨とし、ブログ執筆のほか、折りにふれてバレエ・リュス、ロシア絵本、プロコフィエフの日本滞在などについて論考を綴っている。 国境を越えた20世紀芸術の伝播に強い関心を抱くとともに、自らのルーツである70年代カルチャーにもやみがたい郷愁を 覚える。 今も残る手控帖によれば1970年12月12日に(乏しい小遣いをやりくりして)銀座のヤマハ楽器店でLPを手に入れた。 ドヴォルザーク: 弦楽セレナード ホ長調 作品22 セレナード ニ短調 作品44 ヨゼフ・ヴラフ指揮 チェコ室内管弦楽団 マルティン・トゥルノフスキー指揮 プラハ室内管楽合奏団 日本コロムビア スプラフォン OS-999-S 1968, LP 同じ日に同じヤマハの店頭でジョン・バルビローリ指揮ロンドン交響楽団による "English Tone Pictures" なる英国盤LPも購入した。 そのB面に収められたディーリアスの管弦楽曲「夏の歌 A Song of Summer」がどうしても聴きたかったからだ。 高価な輸入盤は遙かに仰ぎ見る高嶺の花だったが、国内盤は出ていなかったので大奮発した。 その年の初めにTVでケン・ラッセル監督のBBC映画《夏の歌》を観た田舎の高校三年生はこの曲が耳にしたくて、矢も楯も堪らなかった。 あの頃の一途な熱心が我ながら羨ましい。 だがそれはまた別の話だ。 ドヴォジャークのふたつのセレナードはすでにラヂオで耳にして、すっかりお気に入りになっていたと思う。 とりわけロマンティックな旋律美の極致と称すべき弦楽セレナードにはぞっこん惚れ込んでいた。 店頭にはイシュトヴァーン・ケルテース指揮ロンドン交響楽団(+ブラームスの第二セレナード)、ラファエル・クベリーク指揮イギリス室内管弦楽団(+クベリーク自作)、レズリー・ジョーンズ指揮ロンドン・リトル・オーケストラ(+チャイコフスキーの弦楽セレナード)などの競合盤があったはずなのだが、小生は迷うことなく上記のスプラフォン盤を棚から引き抜いてレジに持参したと思う。 ドヴォジャーク二曲を表裏に収めた唯一のLP、しかも本場の演奏だし、事前に上野の文化会館の資料室でちゃんと試聴も済ませていた。 受験勉強そっちのけで音楽ばかり聴いていた時分の話だ。 だが今日ここで聴くのはこの演奏ではない。 残念ながらCD未覆刻だからだ。 今後も望めないだろう。 仕方ないので別の録音を書庫の奥から探し出してきた。 同じようにドヴォジャークの二曲のセレナードをカップリングした本場の演奏を。 収録時間が延びて「スラヴ舞曲」(の八重奏編曲版)が挿入されたのを別にすれば、四十五年前に手にしたのと同じカップリングなのに、すべてが異なる。 なにしろ 弦楽セレナードが弦楽で奏されないのだから吃驚だ。 編成はクラリネット、ホルン、ファゴット、ヴァイオリン二挺、ヴィオラ、コントラバス、そしてピアノ。 冒頭のテーマはまずホルンから出てクラリネットに引き継がれる。 聴感からすると「木管セレナード」といった趣なのだ。 しかも、ライナーノーツによれば、作品22の弦楽セレナード(1875)はその二年前、この編成でまず初期形が書かれたのだという! 本当なのか? いやはや長生きはしてみるものだ。 ドヴォジャークは弦楽のためのセレナードを1875年の5月3日から14日にかけて、僅か十二日で作曲したと伝えられる。 実を云うと、このイングマン編曲版は1990年(チェコ九重奏団)、1994年(ハーモニー・アンサンブル/ニューヨーク)、そしてこの1998年(チェコ九重奏団)とこれまでに三度も録音され、それなりに人口に膾炙しているらしい。 ただし研究者の間では一顧だにされていないらしく、そもそも「失われた1873年版」の実在も明確ではないようだ。 編曲者イングマンも一応ライナーノーツでは音楽学者ということになっているが、本業はポップス系? のアレンジャーらしく、ダイアナ・ロスやティナ・ターナー、ビョークらの編曲や、《恋におちたシェイクスピア》《リトル・ダンサー》などの映画音楽にも関わったらしい。 要するに器用なアレンジ仕事を手広く手堅くこなす器用人というあたりか。 いや、だから駄目だというわけではなく、このドヴォジャークだって実に尤もらしく響く。 ベートーヴェンの七重奏曲やシューベルトの八重奏曲と一緒に演奏会で奏されても違和感なく聞こえるだろう。 イングマンにはドヴォジャークの作品44のセレナードの弦楽合奏用編曲もあるそうだ。 それもいつか聴いてみたい気がする。 オリジナルとの聴き較べで。 ただし当CDとは別演奏だが。

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牛若・チェンジ【天使だらけ/22位】

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スポンサードリンク このブログを今日から引っ越すことにしました! この前も少し触れましたが、お気に入りに入れて楽しみにしていた方のブログが突然削除され、 私ももしや・・・と、無料ブログのそんなリスクも考えて引っ越しを決めました。 6月から106万の壁を超えて働き始めたことや、 8月でブログを初めて丸3年になることも、引っ越すきっかけの一つです。 特に全く意味は無いんだけど今日から月が変わったし。 今までと同じでだらだらと毎日の暮らしを書いていくことになると思いますが、 これからもどうぞ宜しくお願いします。 ペコリ このブログの記事は今のところこのまま置いておく予定です。 自分が好きな記事だけ誤字などだけ直して転載するかもしれませんが、 今はまだ全く未定です。 明日からは新しいブログをご覧になっていただけると嬉しいです。 よろしくお願いします。 ブログ村ブログランキングも、明日新しいブログに設定変更する予定にしています お気に入りに入れてダイレクトで訪問してくださっている方は、URLの変更をお願いします。 スポンサードリンク --------------------------------------------------------------------.

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