は くす きのえ の 戦い は く そんこう。 白村江の戦い / hungerhandoff.gratafy.com

5分でわかる白村江の戦い!なぜ起きたのか、その後も含めてわかりやすく解説

は くす きのえ の 戦い は く そんこう

とは、では (はくそんこうのたたかい 、はくすきのえのたたかい)は、 2 年 8 月( 10 月)にの白村江(現在の河口付近)で行われた、・遺民の連合軍と、・連合軍とののことである。 マイペディア 663年,日本がに敗れた海戦。 (〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の きんこう 河口付近の古名。 かねてから くだら と争っていた しらぎ は, こうくり と戦っていた唐と結び 660年,ついにの都を占領,王らを捕虜としたので,の遺臣は日本に救援を求めた。 は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,・らも北九州に本営を置いて指揮したが,は病死。 水軍は 663年8月 27・ 28両日の海戦で唐の水軍に挟撃 きょうげき されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。 画像はネットから 以下のブログが面白い。 その理由はね・・もう判るかと思うけんども・・ 「倭」とは側のことを言ってるのではなくて、「姫氏國」もしくは、その流れを引く「九州王朝」のことだったから・・なのねん。 少なくとも「大陸の国が言う倭の国はでは無かった」のねん! だから、唐・の全権大使は、九州に来て戦犯として「筑紫君」他を連行しているようなのねん。 でもの朝廷にも郭務宗らが 2000人規模で来てはいるが、どうもこれが挨拶程度のようなのねん・・。 「筑紫君」こそが倭の王っちゅう証拠に思えるよねん? このをしたのは九州王朝の「」であって、「はほとんど何もしなかった」のねん。 もっと言ってしまえば、 「は無かった!!」 実際にはは 661年~ 662年にを助けに行ってるのねん。 そして、に人質として預かっていた皇子も連れて行ってる。 そしてそこで大敗を喫したのねん。 それは中国の歴にも「と戦った」と書いてあるのねんけんど、の 663年のことは書いてないのねん。 がやったことは、戦後の後始末としてに向かい、残存勢力と小競り合いをしつつ、の官僚・王族たちを連れ帰ったことだけなのねんな~。 ね~・・ビックリだしょ~! 以下のブログにも詳しく書いてある。 ことらの日記では、 の記録以外には無かった。 捏造です。 は中国朝鮮がやったのだそうです。 皆 捏造です。 ・・中国(唐)による転利目的の捏造だったそうです。 が知らないという記録や、でっち上げのの墓などランドマークも沢山作り上げました。 ふざけたで日本大敗などというのも捏ち上げです。 そもそも、朝廷はにあったのです。 も、など無かったと言っています。 額田姫をめぐる因縁や、九州王朝説など、全て嘘です。 はも知らなかったのです。 以前から周辺には敵国、バカチョンの草がいたのです。 したがってなどという話も的外れです。 によると戦いは 27日間続いたそうです。 最大の激戦地はここだったそうです。 立南白糸台小学校 は母が伊賀のだったと言われています。 この母はの 2年前に殺されてしまったそうです。 その為、はこちらに祭ったそうです。 、尊を祀る九万八千 くまはっせん 神社です。 ここはの母の古墳だったのです。 訪問者様が取材してきてくださいました。 いつも感謝です。 アスは慈悲という意味もあるそうです。 ヨーロッパ以外の国にはたいてい慈悲という意味の言葉があるようです。 特亜の国は除くようです。 そしてアスは宇宙でもあるのだそうです。 astro-は星、天体の接頭辞です。 の人もアオイタ公に追われ日本に逃げてきたのです。 この人達もです。 はの弾圧のため探盟深湯 くがたち を行ったのです。 ・・もちろん、良きの皆さんは合議の上、允恭をとは認めないそうです。 ざっと古代から除外すべきは、允恭、雄略、武烈、宣化、・・などです。 倭 やまと (出雲朝)に敵と成り、歴録を捏造させた者たちです。 のメとは邇邇藝命 ににぎのみこと の星、火星です。 ここもアスです。 エジプトの地にもアスワンがあります。 イシス神、岐姫の世界です。 天神7代後半は、地球の核、の指令、お地蔵様の世界です。 天神7代前半は聖書で言う混沌の時代で、氣比(ケヒ)というのだそうです。 この氣比がイソ( iso,五十)なのだそうです。 地球の素はケイ素ですが混合中といったところです。 星ができると、指令であるお地蔵様が住まれ、日本が開闢したわけです。 日本以下はおまけのようです。 そのため、日本の侵略はありえません。 も無かったのです。 日本が侵略などバカチョン共の捏造です。 すら、の記録以外には無かったのです。 これもふざけた話です。 など、いっぱいでてきます。 mkana777jp.

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百済|百済の歴史

は くす きのえ の 戦い は く そんこう

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、2年8月(10月)にの白村江(現在の河口付近)で行われた、・遺民の連合軍と、・連合軍とのである。 名称 日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と読まれることが多い。 「白村江」という川があったわけではなく、白江(現)がに流れ込む海辺を白村江と呼んだ。 「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す。 白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった。 ただし、の『』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。 では白江之口と書く()。 背景 朝鮮半島と中国大陸の情勢 からのでは・・の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。 は半島南部に領有するを通じて影響力を持っていたことが『』の記録から知られている。 大陸側でも、400年条の「任那」の記述が初出である。 『』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、」と2国が併記され、その後も踏襲されて『』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。 任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、以前に新羅に滅ぼされた。 475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。 その後、への遷都によって復興し、538年にはへ遷都した。 当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている。 一方、に建国されたは、を統一し・の治世に4度の大規模な高句麗遠征()を行ったもののいずれも失敗した。 その後隋は国内の反乱でには煬帝が殺害されて滅んだ。 そして新たに建国されたは、628年に国内を統一した。 唐は二代・の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を重ね()征服することになる。 唐による新羅冊封 新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。 しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。 また、(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。 頃から唐による百済侵攻が画策されていた。 、新羅はに代わってを倭国へ派遣している。 百済の情勢 百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。 654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。 656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。 日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。 657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。 このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。 男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。 659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。 汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。 倭国の情勢 この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、最中の倭国内部でも警戒感が高まった。 大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。 この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「=親百済派、=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。 新羅征討進言 2年()にが、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。 遣唐使 白雉4年()・5年()と2年連続でが派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。 蝦夷・粛慎討伐 の時代になると北方征伐が計画され、は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月にを、660年3月にはの討伐を行った。 百済の役 、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。 その後、らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国がに参戦し、白村江の戦いで敗戦する。 この間の戦役を 百済の役(くだらのえき)という。 百済滅亡 3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、を神丘道行軍大総管に任命し、将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。 唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。 唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった。 百済王を諌めて獄死したは唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった。 また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。 百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた。 ;黄山の戦い 百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。 新羅側は太子法敏(のちの)、欽純(きんじゅん)将軍、品日(ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。 7月9日の激戦で階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した。 この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐のはこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を許された。 唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、口の防衛線を破り王都に迫った。 義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した。 7月12日、唐軍は王都を包囲。 百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否。 7月13日、義慈王はに逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した。 (斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を支配の下に置いた。 唐は将軍に王都城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督として派遣した()。 唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた。 大唐平百済国碑銘は、現在もの定林寺の五重石塔に残っている。 百済復興運動 唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かうと、百済遺民・らによる百済復興運動が起きた。 8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。 現在の忠南大興面)を防衛した。 9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した。 百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。 こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。 熊津都督王文度も着任後に急死している。 唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。 10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した。 10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。 しかし、百済遺臣の西武恩卒、僧侶(どうちん)、らのや、達率の(スルじょう)などが抵抗拠点であった。 倭国による百済救援 百済滅亡の後、百済の遺臣は・らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子を擁立しようと、倭国に救援を要請した。 中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。 、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した。 斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずにし、(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。 この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。 軍事力 唐・新羅連合軍 総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している。 また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる。 当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。 この時参加した唐の水軍も、その主力はで構成されていたという。 日本書紀によれば、白村江の戦いの663年から666年にかけて、「唐国の使人等六百人、送使等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶にに泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。 忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。 乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。 水軍 水軍7,000名、170余隻の水軍。 指揮官は、、元百済太子の。 陸軍 不明。 陸軍指揮官は、、新羅王の金法敏()。 倭国軍• 第一派:1万余人。 船舶170余隻。 指揮官は、、。 第二派:2万7千人。 軍主力。 指揮官は、、(阿倍引田比羅夫)。 第三派:1万余人。 指揮官は(いおはらのきみおみ)(の子孫。 現を本拠とした)。 戦いの経過 5月、第一派倭国軍が出発。 指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。 豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。 3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。 指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。 (2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。 百済の再起に対して唐は増援の率いる水軍7,000名を派遣した。 唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。 陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏()が指揮した。 劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。 海上戦 倭国・百済連合軍は、の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。 倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、唐・新羅水軍に大敗した。 この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『』)。 陸上戦 同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。 白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。 九州の豪族である筑紫君や、、が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。 白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍およびを望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 戦後の朝鮮半島と倭国 唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、上屈指の大国として歴史に名を残した統一王朝である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わるプロセスの中で起きた戦役であるといえる。 以下、朝鮮半島および倭国における戦後の状況について解説する。 朝鮮半島 高句麗の滅亡 白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐がから高句麗へ侵攻()しており、3度の攻勢によってに滅ぼしを置いた。 白村江の戦いで国を失った百済のは、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。 高句麗の滅亡により、で唐に敵対するのはのみとなった。 渤海の建国 、のは高句麗遺民などと共に南部で国を建国した。 建国当初は唐と対立していたものの、後に唐からを受け臣従するに至った。 また日本は新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形でをおこなうなど、渤海とはやなどの側沿岸での交流を深めていった。 新羅による半島統一 戦後、唐は百済・高句麗の故地にを置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。 新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。 670年、唐が西域でと戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津を襲撃し、唐の官吏を多数殺害した。 他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。 何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。 唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の韓国と北朝鮮南部)がなされた。 倭国 総説 白村江の戦いでの敗北は、と、による占領を招いたと並び、日本列島が海外勢力の占領下に入る危険性が非常に高まった戦争であった。 この敗戦により倭国は日本列島のは奪われなかったものの、朝鮮半島の領地・権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など統治システムの基礎部分を根本的に変革する必要に迫られた。 下記に示すとおり、唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には法令群、の代には最初のとされるの制定が命じられるなど、の建設が急いで進み、倭国は「」へを変えた。 白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。 戦後交渉および唐との友好関係の樹立 に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国のが戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。 この唐使を送るため、倭国側はらの送唐客使(実質)を派遣した。 には、唐の百済鎮将が、熊津(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。 は唐との関係の正常化を図り、669年にらを正式な遣唐使として派遣した。 の影響下にあったも戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される。 670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。 後述するように・に一時的な中断を見たものの、遣唐使はその後も長らく継続され、唐との友好関係を基調とした日本の外交を支えていくこととなった。 捕虜の帰還 690年(4年)、は、上陽咩郡(上妻郡)の住人 に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。 その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。 その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。 そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。 わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。 」と詔して表彰し、の一族に土地などの褒美を与えた。 幕末の思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。 707年、讃岐国の(にしごりとら)、陸奥国の(みぶのいおたり)、筑後国の(こせべのかたみ)らも帰還した。 防衛体制の整備 白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れたは防衛網の再構築および強化に着手した。 百済帰化人の協力の下、や北部九州のの(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(、、岡山など)に朝鮮式の防衛砦を築き、北部九州沿岸には(さきもり)を配備した。 さらに、に天智天皇は都をから内陸のへ移し、ここに防衛体制は完成を見た。 中央集権体制への移行と国号の変更 671年にが急死すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子()と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大のである が起こる。 これに勝利した大海人皇子は、(生年不詳〜686年)として即位した。 皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。 遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。 また倭国から新羅へのも頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。 これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。 しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。 天武天皇の死後もその専制的統治路線はによって継承され、701年の制定により倭国からへと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。 「日本」の枠組みがほぼ完成した以後は、によってが再開され、を派遣して唐との国交を回復している。 百済遺民の四散 天智10年(670年)正月には、(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者であるは小錦下の位を授けられた(蒲生郡に送られる)。 百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。 その後、において金鉱を発見し、の建立に貢献した功により、が従三位を授けられている。 史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の氏族は消滅したとされる。 異説 7世紀まで九州北部に日本列島を代表する王朝があったとするらのの主張によれば、白村江で戦ったのは畿内(日本)軍ではなくに都した九州王朝(倭)軍であるとする。 古田氏は白村江の戦いでの倭軍の敗因として以下の点を挙げている。 唐朝の外交軍事戦略の転換(畿内ヤマト王権との接近)。 畿内ヤマト王権の戦闘拒否(斉明天皇の死去を口実に離脱か)。 畿内ヤマト王権は倭国へ協力派兵していない。 またこの敗戦で捕虜となったのが倭国の王、薩夜麻でありこれ以降、事実上倭国は滅亡に至った。 もし畿内ヤマト王権の離叛が無く九州各地の神籠石山城に籠もって戦う防衛作戦を倭国が実行していたら事態は一変していただろうと言われている。 かつて、朝鮮半島は倭国の支配領域であり(近年朝鮮半島で前方後円墳が見つかった)倭国と百済とは単なる同盟国を超えた血族に近い関係があったと思われる。 また、白村江の戦いの前後の畿内ヤマト王権の動きとして、不可解な点が数多く指摘されている。 この戦いで畿内の将軍や重臣で戦死や捕虜になった者がいない。 万葉集では一切触れられていない。 白村江の敗戦後、畿内ヤマト王権が目覚ましい発展を遂げている。 など、倭国の滅亡に畿内ヤマト王権が深く関与した事が疑われている。

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【フルボッコ】歴史上初めて日本と中国が戦った『白村江の戦い』

は くす きのえ の 戦い は く そんこう

四方を海に囲まれた日本は大陸からの外敵と古くから戦ってきましたが、日本の方から大陸の敵に立ち向かっていった数少ない事例が 『白村江(はくすきのえ)の戦い』です。 当時の朝鮮半島情勢 当時(7世紀)、朝鮮半島には『高句麗(こうくり)』『新羅(しらぎ)』『百済(くだら)』の3つの国が存在。 この3国は4世紀以降三つ巴の争いを繰り返していたのですが、618年に中国の王朝『唐』が成立すると3国にたいして朝貢(貢物を捧げる事)するよう呼びかけます。 3国は『唐』に使いを派遣、『唐』は3国を 冊封体制に組み入れます。 中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。 中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。 出典: 「3国仲良く唐の支配下」と思っていたら、642年、『百済』と『高句麗』はこんな密約を交わします。 我が国(百済)も『新羅』から奪い取った城を全て返還するように、と『唐』が言ってきたけど無視! 言う事を聞かない国はお仕置き、と『唐』は隣接する『高句麗』に侵攻。 しかし、『高句麗』は同盟国の『百済』や伝統的に友好関係にあった日本の援助もあり唐の3度に及ぶ侵攻を跳ね返します。 一方、『新羅』は『唐』の風俗や制度を積極に取り入れる『唐風化政策』をとって『唐』と友好関係を築きます。 百済滅亡 660年、『唐』と『新羅』の連合軍20万人が『百済』へ侵攻。 『百済』は滅亡します。 しかし、滅亡後も必死に鬼室副信(きしつふくしん)を中心に抵抗していた『百済』の遺臣達は日本に使者を送り、 「百済が唐と新羅に滅ぼされ、王族が捕虜になった」と報告。 そして、日本に人質として滞在している 「王子の余豊璋(よほうしょう)を王にたてて百済を再興したいから軍を派遣してほしい」と要請します。 なぜ、百済の王子が日本にいるのか? 日本は『百済』の南端に出先機関『任那日本府(みまなにほんふ)』を設置していましたが、過去に『新羅』が『百済』へ侵攻した際に『任那日本府』のある地域を占拠します。 もちろん『任那日本府』はお返し致します。 また、お返しする担保として我が国の王子である余豊璋を日本にお送りします。 『任那日本府』のみならず、人質も差し出すというのです。 唐・新羅 VS 日本・百済遺臣 『百済』の要請を受け、 「百済とは古くから付き合いがあるし、このまま放っておくと唐の圧力が日本に及びかねん」と女帝・斉明天皇(さいめいてんのう)は軍の派遣を決定。 自ら兵を率いて大和から2ヶ月以上かけて九州へ。 2人の息子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)も妻を連れて参加しました。 この時代、 女性を戦場に連れていく事はタブーではなかったのです。 さて、九州から『百済』へ軍を向けようとした矢先に斉明天皇は病死してしまったため、皇太子である中大兄皇子が政務を引継ぎます。 『百済』へ武器と食料を送り、自らも軍を率い海を渡って『百済』で戦い、『新羅』を圧倒します。 『新羅』としては『唐』の援軍を待っていたのですが、『唐』は以前から『高句麗』と戦争状態にあり、そう簡単に駆けつける事ができませんでした。 戦況有利な日本だったが・・・ ここまでは日本有利な戦況でした。 日本は、その後も来るべき決戦に備えて武器、船、兵糧を準備。 そして、663年2月、『百済』へ3万人弱の兵を派遣。 これを知った『唐』も対抗して大軍を派遣します。 いざ一致団結して決戦、という時、『百済』に大きな痛手となる出来事が起こります。 百済復興運動の中心人物である 鬼室副信が謀反の疑いをかけられ粛清されてしまいます。 敵の中心人物が殺された事を知った『唐』は、百済復興運動の本拠地である周留城(するじょう)に向かって大軍を派遣。 日本もさらに『百済』を救援するために1000隻を周留城がある錦江流域へ派遣します。 この河口は『白村江』とよばれていました。 白村江の戦い 百済王となり周留城にいた余豊璋は、日本からの援軍がこちらに向かっていることを知り、 「白村江河口まで出迎える」といって城を出ました。 本人にとっては若い頃に20年以上過ごした日本に親しみを感じたうえでの行動だったのでしょうが、王が軽々しく城を離れる行為を目の当たりにした百済遺臣達は、鬼室副信が粛清された事に続いてさらに士気が低下してしまいます。 そして、日本の先着部隊が『白村江』に到着すると、たまたま『唐』の水軍と遭遇し海戦。 あっけなく敗れてしまいます。 翌日、全面戦争が勃発。 ここを突破しないと周留城へたどり着く事ができません。 数では上回っていた日本軍ですが、実態は小船を寄せ集めただけの船団。 一方、『唐』の水軍は最新技術の大型船で編成。 兵士も日本軍は豪族の寄せ集めで作戦も何もなく先陣を争って戦うだけでした。 その結果、日本軍の船は次々沈められ、炎が空を覆い、海は血で赤く染まったといいます。 日本は完敗し、亡命希望の百済人を船に乗せ帰還。 唐の報復を恐れる 帰国後、中大兄皇子は『唐』の報復を恐れ本土防衛に力を入れます。 日本に亡命してきた百済人の協力で、福岡県大宰府近くに大掛かりな壕を作りました。 これは、約600年後のモンゴル襲来で役立ちます。 そして、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)を置きます。 663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。 出典: 667年、防衛上の観点から奈良の飛鳥から滋賀の近江大津に遷都。 翌年天智天皇となりました。 さて、『唐』はというと、相変わらず『高句麗』と闘い続けており 日本になんてかまっていられない状況でした。 『唐』は『白村江の戦い』から5年後に『高句麗』を滅亡させたのでした。

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