石村 萬 盛 堂。 福岡地区

社長に長男善之亮氏、副社長に次男慎悟氏が就任 石村萬盛堂

石村 萬 盛 堂

(株)石村萬盛堂の前社長・石村善悟氏が4月8日、福岡市内の病院で死去した。 71歳。 石村氏は東京大学卒業後、1971年に同社入社。 専務取締役を経て79年に3代目社長に就任。 「ホワイトデー」の起源となる「マシュマロデー」を考案するなど、独創的な発想と卓越した経営手腕で同社を地場トップクラスの菓子業者に引き上げた。 また、財界活動にも積極的に取り組み、若手経営者の育成にも力を注いだ。 石村 善悟 氏(2015年7月撮影) 石村氏は面倒見の良い人物としても知られ、石村萬盛堂に勤務していたコメディアン・小松政夫さんが上京する際、餞別を渡して見送ったという。 財界人だけでなく若年層の教育にも熱心で、福岡市の教育委員を長く務めた。 経営で大事にしていたのは「守破離」という言葉。 伝統を重んじつつも、革新的であるといった意味で、「鶴乃子」など和菓子の老舗として知られた石村萬盛堂に洋菓子ブランド「ボンサンク」を導入して展開し、九州一円および一部中国地区まで店舗網を拡大した石村氏はまさに「守破離」を実践したといえる。 旧本店前が博多祇園山笠の廻り止め(終着点)という生粋の博多人。 地元への愛着は人一倍強く、かつて家々をめぐって餅をついた「博多餅つき」を旧本店で復活させるなど地域貢献にも熱心だった。 2017年に社長を長男・善之亮氏に譲り一線を退いた後は講演活動などを行っていた。 石村氏の友人である凡学一生氏(NetIBNewsで「凡学一生のやさしい法律学」などを執筆)から追悼のメッセージが届いたので以下に紹介する。 「福岡団塊世代」の巨星墜つ 昭和40年代、福岡の有名進学校修猷館で石村善悟の名を知らぬ者はいなかった。 ずば抜けた文武両道の秀才だったからである。 東京大学経済学部に現役進学し、家業を継いで実業界で活躍したが、学生時代から、ほんの最近まで、筆者は「ぜんご」(学友は皆、親しみを込めて苗字ではなく下の名を呼び捨てにして深い友情を表わしていた)に、日本社会のリーダーとなってもらう夢を抱き、会うたびに政治の世界での発言を求めたりしていた。 今にして思えば「ぜんご」は筆者の青春の希望の象徴でもあった気がする。 実は「ぜんご」は筆者の仲人でもある。 妻の両親が筆者の将来性を心配して「ぜんご」に内密に尋ねたという。 そこで「ぜんご」は太鼓判を押して推薦してくれた。 「今はカオスだが絶対に人物には間違いない」と。 この絶妙な仲人口によって、筆者の現在はある。 筆者はまた、多くの学友と同じく、「ぜんご」の会社で人生の一時期を過ごした。 つまり生活の面倒も見てもらったのである。 一人娘が生まれたときは、会長(「ぜんご」のご母堂)からお祝いを頂くほどの家庭的な会社であった。 家業もご子息が継承して、いよいよ「ぜんご」が豊富な社会経験を基に社会貢献ができる時期に達したこの時に「ぜんご」の訃報に接することとなった。 人生の皮肉に、深い悲しみ、寂しさを禁じ得ない。 やがて来世でも一緒となる筆者は、「ぜんご」が変わらぬ友情でもって筆者に接してくれることを信じてやまない。 令和2年4月8日 「学友」凡学 一生.

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(株)石村萬盛堂の前社長・石村善悟氏が4月8日、福岡市内の病院で死去した。 71歳。 石村氏は東京大学卒業後、1971年に同社入社。 専務取締役を経て79年に3代目社長に就任。 「ホワイトデー」の起源となる「マシュマロデー」を考案するなど、独創的な発想と卓越した経営手腕で同社を地場トップクラスの菓子業者に引き上げた。 また、財界活動にも積極的に取り組み、若手経営者の育成にも力を注いだ。 石村 善悟 氏(2015年7月撮影) 石村氏は面倒見の良い人物としても知られ、石村萬盛堂に勤務していたコメディアン・小松政夫さんが上京する際、餞別を渡して見送ったという。 財界人だけでなく若年層の教育にも熱心で、福岡市の教育委員を長く務めた。 経営で大事にしていたのは「守破離」という言葉。 伝統を重んじつつも、革新的であるといった意味で、「鶴乃子」など和菓子の老舗として知られた石村萬盛堂に洋菓子ブランド「ボンサンク」を導入して展開し、九州一円および一部中国地区まで店舗網を拡大した石村氏はまさに「守破離」を実践したといえる。 旧本店前が博多祇園山笠の廻り止め(終着点)という生粋の博多人。 地元への愛着は人一倍強く、かつて家々をめぐって餅をついた「博多餅つき」を旧本店で復活させるなど地域貢献にも熱心だった。 2017年に社長を長男・善之亮氏に譲り一線を退いた後は講演活動などを行っていた。 石村氏の友人である凡学一生氏(NetIBNewsで「凡学一生のやさしい法律学」などを執筆)から追悼のメッセージが届いたので以下に紹介する。 「福岡団塊世代」の巨星墜つ 昭和40年代、福岡の有名進学校修猷館で石村善悟の名を知らぬ者はいなかった。 ずば抜けた文武両道の秀才だったからである。 東京大学経済学部に現役進学し、家業を継いで実業界で活躍したが、学生時代から、ほんの最近まで、筆者は「ぜんご」(学友は皆、親しみを込めて苗字ではなく下の名を呼び捨てにして深い友情を表わしていた)に、日本社会のリーダーとなってもらう夢を抱き、会うたびに政治の世界での発言を求めたりしていた。 今にして思えば「ぜんご」は筆者の青春の希望の象徴でもあった気がする。 実は「ぜんご」は筆者の仲人でもある。 妻の両親が筆者の将来性を心配して「ぜんご」に内密に尋ねたという。 そこで「ぜんご」は太鼓判を押して推薦してくれた。 「今はカオスだが絶対に人物には間違いない」と。 この絶妙な仲人口によって、筆者の現在はある。 筆者はまた、多くの学友と同じく、「ぜんご」の会社で人生の一時期を過ごした。 つまり生活の面倒も見てもらったのである。 一人娘が生まれたときは、会長(「ぜんご」のご母堂)からお祝いを頂くほどの家庭的な会社であった。 家業もご子息が継承して、いよいよ「ぜんご」が豊富な社会経験を基に社会貢献ができる時期に達したこの時に「ぜんご」の訃報に接することとなった。 人生の皮肉に、深い悲しみ、寂しさを禁じ得ない。 やがて来世でも一緒となる筆者は、「ぜんご」が変わらぬ友情でもって筆者に接してくれることを信じてやまない。 令和2年4月8日 「学友」凡学 一生.

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太宰府市、石村萬盛堂工場直売所で鶴の子を購入、食べてみました | 福岡県地元人の地域・日常情報ブログ

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(株)石村萬盛堂の前社長・石村善悟氏が4月8日、福岡市内の病院で死去した。 71歳。 石村氏は東京大学卒業後、1971年に同社入社。 専務取締役を経て79年に3代目社長に就任。 「ホワイトデー」の起源となる「マシュマロデー」を考案するなど、独創的な発想と卓越した経営手腕で同社を地場トップクラスの菓子業者に引き上げた。 また、財界活動にも積極的に取り組み、若手経営者の育成にも力を注いだ。 石村 善悟 氏(2015年7月撮影) 石村氏は面倒見の良い人物としても知られ、石村萬盛堂に勤務していたコメディアン・小松政夫さんが上京する際、餞別を渡して見送ったという。 財界人だけでなく若年層の教育にも熱心で、福岡市の教育委員を長く務めた。 経営で大事にしていたのは「守破離」という言葉。 伝統を重んじつつも、革新的であるといった意味で、「鶴乃子」など和菓子の老舗として知られた石村萬盛堂に洋菓子ブランド「ボンサンク」を導入して展開し、九州一円および一部中国地区まで店舗網を拡大した石村氏はまさに「守破離」を実践したといえる。 旧本店前が博多祇園山笠の廻り止め(終着点)という生粋の博多人。 地元への愛着は人一倍強く、かつて家々をめぐって餅をついた「博多餅つき」を旧本店で復活させるなど地域貢献にも熱心だった。 2017年に社長を長男・善之亮氏に譲り一線を退いた後は講演活動などを行っていた。 石村氏の友人である凡学一生氏(NetIBNewsで「凡学一生のやさしい法律学」などを執筆)から追悼のメッセージが届いたので以下に紹介する。 「福岡団塊世代」の巨星墜つ 昭和40年代、福岡の有名進学校修猷館で石村善悟の名を知らぬ者はいなかった。 ずば抜けた文武両道の秀才だったからである。 東京大学経済学部に現役進学し、家業を継いで実業界で活躍したが、学生時代から、ほんの最近まで、筆者は「ぜんご」(学友は皆、親しみを込めて苗字ではなく下の名を呼び捨てにして深い友情を表わしていた)に、日本社会のリーダーとなってもらう夢を抱き、会うたびに政治の世界での発言を求めたりしていた。 今にして思えば「ぜんご」は筆者の青春の希望の象徴でもあった気がする。 実は「ぜんご」は筆者の仲人でもある。 妻の両親が筆者の将来性を心配して「ぜんご」に内密に尋ねたという。 そこで「ぜんご」は太鼓判を押して推薦してくれた。 「今はカオスだが絶対に人物には間違いない」と。 この絶妙な仲人口によって、筆者の現在はある。 筆者はまた、多くの学友と同じく、「ぜんご」の会社で人生の一時期を過ごした。 つまり生活の面倒も見てもらったのである。 一人娘が生まれたときは、会長(「ぜんご」のご母堂)からお祝いを頂くほどの家庭的な会社であった。 家業もご子息が継承して、いよいよ「ぜんご」が豊富な社会経験を基に社会貢献ができる時期に達したこの時に「ぜんご」の訃報に接することとなった。 人生の皮肉に、深い悲しみ、寂しさを禁じ得ない。 やがて来世でも一緒となる筆者は、「ぜんご」が変わらぬ友情でもって筆者に接してくれることを信じてやまない。 令和2年4月8日 「学友」凡学 一生.

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