バブル は よかった。 バブル崩壊

バブルのころにおいしい思いをしておけばよかった

バブル は よかった

2020年5月24日に、ゴールデンボンバーの新曲 【バブルはよかった】の仮MVが公開されました。 ボーカルである鬼龍院翔さんが、 【喜矢武豊はマジで暇だろう】 という理由で、歌っている映像だけ自宅で撮影し後は丸投げしたそうです。 笑 そうして出来上がったのがバブルはよかったです。 【いらすとや】というフリー素材を提供してくれるサイトがあるのですが、この素材をふんだんに使用して作られたMVはとてもユニークで、私も思わず吹き出してしまいました。 笑 ただ、このMVを見た一部の人たちからある疑問が浮かびました。 それが、 【いらすとやにお金は払っているのか??】ということです。 ということで今回は、ゴールデンボンバーさんはいらすとやにお金を支払っているのかどうか調べてみました! いらすとやのイラストは有料 有償 ? いらすとやは、基本的には無料で素材を使用することができます。 ですが、場合によっては 使用料を支払う必要性が出てきます。 どういう場合かと申しますと、 素材を21点以上使った商用デザインである時です。 これは実際にいらすとやの公式サイトにも記載されています。 以下の場合、有償にて対応させていただきます。 メニューの『お問い合わせ』 からご連絡下さい。 素材を21点以上使った商用デザイン(重複したものは除きます)• 👇 21どこらじゃないくらい素材が使われていいますね。 笑 これに関しては、Twitter上でも疑問を抱いている方がちらほらと見受けられました。 鬼龍院さんもすごいが、喜矢武さんもすごい! いらすとやを使用しているけど、素材を21点以上使った商用デザインなので有料になってるパターンのやつ。 では、いらすとやに 一体いくらくらい支払えばいいのでしょうか? 実はこれに関してもいらすとやの公式サイトに記載があります。 どれくらいの数を使用したかにもよりますが、動画を見た限りでは全然 支払えるレベルの金額ですね。 でも、油断してはいけません。 もし支払うことを知らなくて支払わなかった場合、 最悪裁判になる可能性もあります。 静岡県裾野市は今年4月、京都市のイラスト管理会社から無断使用を指摘され、著作権使用料14万5800円を支払った。 対象となったのは、市が昨年3月に1万9000部作製したチラシ「機関紙ごみステーション」に掲載した家族のイメージ図。 担当職員が「フリー 団体 イラスト」のキーワードでネット検索し、検索結果一覧から1点を選んで使用した。 私自身、ゴールデンボンバーさんは好きなバンドの1つです。 女々しくてもよく聞いていました。 テレビ出演の際なども、毎度面白く笑わせてくれる演出などが大好きです。 ですので、支払っていてくれていることを祈っています! まとめ ということで今回は、ゴールデンボンバーさんの新曲【バブルはよかった】のMVで使用されていた、いらすとやの素材に 実は使用料が必要で、それを支払っているのかどうか?についてご紹介致しました。 現時点で確かな情報はありませんでしたので、情報が入り次第追記致します。 お願いだから払っていて!笑.

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ゴールデンボンバー「バブルはよかった」仮MV

バブル は よかった

2020年現在、家から出られずライブも出来ず、 「昔はよかった…なんならバブルはもっとよかったんだろうなぁ…」 という気持ちを曲にした現実逃避ソング 鬼龍院が歌っている上半身だけiPhoneで撮影し、 あとは暇しているであろうギターの喜矢武豊に動画編集を丸投げして完成。 誰も家から出ずに、いらすとやさんの素材のみで構成された新時代のミュージックビデオ! ゴールデンボンバー「バブルはよかった」歌詞 作詞作曲:鬼龍院翔 編曲:鬼龍院翔、tatsuo 動画編集:喜矢武豊 人を掻き分けて声をかけた 真夏のマーメイドガール 気まぐれに移るその表情が ジゴロの視線束ねて そっと漂う甘いコロン 耳で踊る菱形のイヤリング その全て何もかもがおまえを輝かせる 揺れる灯りを be all right 零れたペリニヨン secret the night 乱れたルージュの miss moonlight さあ僕の腕の中へ 繰り返し流れる dancing beat 繰り返し絡める sweet your lips 奪って全てを mermaid girl さあ僕の中で永遠に踊ろう ふと寂し気な表情の後で リンゴを出してかじる 強く見えがちなbeauty faceからの gapに響く指笛 そうおまえ知ったその日から迷い込んだ迷宮 ラビリンス Mysteryおいでよ side seat 二人眺めよう Waterfront 吠え面をかいた floor mens さあ二人きりさ highway 繰り返し流れる city light 繰り返し高鳴る my car muffler 飛ばして全てを open car さあ風の中で永遠に踊ろう そう今はこんな時代 誰も彼も毎夜終わらぬparty その全てを使い味わい時代の波を泳ぐ 揺れる灯りを be all right 零れたペリニヨン secret the night 乱れたルージュの miss moonright さあ僕の家の中へ 繰り返し流れる drinking bird 繰り返し揺らめく kinetic art 誰にも邪魔されない no smartphone さあ終わらない夢を見よう Mysteryおいでよ happy age 二人眺めよう flower rock 注がれ溢れる champagne tower さあ泡に溺れ永遠に眠ろう ゴールデンボンバー「バブルはよかった」制作について 時報とか変な動画ばっかり作ってないで音楽作ってくれよ、あんた一応ミュージシャンだろ って、自分でも思ってます。 本来ならこんな時こそ音楽を届けるべきなのに焚き火やら羊やらの動画ばっかり作って…そろそろ音楽作れよって思うと思います '-' でも、ライブが延期になってからすぐに、 — 鬼龍院翔 ゴールデンボンバー kiryuintw ライブが延期になってすぐに 「ありふれたうた」 を作って公開して気持ちを音楽にしました。 この歌の中で現状で言いたいことは殆ど歌っています。 なので、これ以上今の現状を歌う気に全くなれず、新しい曲がなかなか思い浮かばない日々が続いています。 — 鬼龍院翔 ゴールデンボンバー kiryuintw 日々の生活で感じたことを曲にする自分が歌えるものは今は無い… そんなふうに思ってしまう中で、ある答えに辿り着きました 「あれ?バブルはよかった…って思ってしまっていることもそのまま曲にすればいいんじゃね?」 今の辛く不安な世の中を完全に無視した曲を作るのもアリかもな… と思い立ち、 — 鬼龍院翔 ゴールデンボンバー kiryuintw 今の現実逃避の気持ちを曲にしました 「バブルはよかった」 映像どうしようかな〜今撮影出来ないしな〜と思った時に喜矢武さんマジで暇だろうしリアルになんもしない人状態になってるだろうから僕が自宅で歌ってる映像だけスマホで撮って送ってあとは編集を丸投げしました🖥 — 鬼龍院翔 ゴールデンボンバー kiryuintw おいなんで喜矢武さんだけトレンド入るんだよ!笑 — 鬼龍院翔 ゴールデンボンバー kiryuintw なんか家でぼーっとしてたら依頼が来たんでゴールデンボンバーのMVを作ってみました。 結構大変でした。 お久しぶりです。 この自粛期間お元気ですか?私は幸い、あまり影響を受けない業種のため大きく生活に変化はありませんでしたが、飲みやライブの予定は全てなくなりまして、暇な時間も増えました。 なので更新していますwww イントロが大黒摩季っぽくていいですw バブルについてなんですが、私も鬼龍院さんと同世代(正確には2歳年上ですが)なので、バブル時代(1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月、といわれている)は幼稚園~小学生くらいなんですよね。。。 なので肌で感じた記憶はあまりないのですが、とりあえず父親は羽振り良かったなとか、テレビが面白かったなとかそういう記憶があります。 そして80~90年代のJ-POPが元々好きなので、鬼龍院さんの作る曲が好みでもあるのですが、最近東京ラブストーリーがオシャレになったやつがFODとかAmazonプライムビデオで配信されていて、「いや織田裕二と鈴木保奈美以外ありえねーだろ」とか思いつつ、暇で見てしまったらこれがまたうまいこと今の時代バージョンになっていて!ハマっております!主題歌も違うし、リメイクではなくて原作(柴門ふみさんの漫画)をドラマ化したリブート作品らしい。 わたくしは前作の大ファンで死ぬほどリスペクトしてますが、今回はリメイクじゃなくて、原作を改めてドラマ化したリブート作品です。 画像は読み込んだ原作本。 お茶とかビールとかカレーとか涙とか汗とか醤油とか染み込んでます。 (どちらもAmazonプライムビデオかFODで見れます!) なんかバブル感のあるものが昔から好きで、バブル青田とかもスゴイ好きだったし…ダンシング・ヒーローとかも。 バブリーな建物ってあるじゃないですが、無駄に豪華なリゾートホテルとか、でかいビルとかマンションとか。 そういうのを見るのも好きなんですよね。 抱きしめたい!も好きで前よく見てたw.

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団塊、バブル、氷河期、ゆとり : それぞれの世代の特徴は?

バブル は よかった

1956年 - 2008年の日本の実質成長率の推移 バブル崩壊という現象は、単に景気循環における景気後退という面だけでなく、急激な、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急激な減退、そして政策の錯誤が絡んでいる。 後半にはは異常な伸びを見せた。 では、、、など、1993年頃まで地価が高騰していた地方都市もある。 バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価の下落により、担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。 また各事業会社の収益は、未曾有の不景気で大きく低下した。 こうして、銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。 また、4大証券会社(・・・)は、株取引で損失を被った一部の顧客に対して損失補填を行ったため、設立のきっかけとなった。 要因 [ ] に銀行局長から通達された「土地関連融資の抑制について」( )に加えて、総裁による金融引き締めは急激なものとなり、が一気に進んだ。 信用崩壊のさなかにおいても金融引き締めは続けられ、を極度に悪化させた。 5月から1年3カ月の間に5回の利上げが実施され、2. の増加率は、1990年には11. ただし、マネーサプライ増加率の減少はマイナスになるほどのものではなかった。 政府は、日銀のの急激な引き上げに続き、不動産の総量規制、の創設、の課税強化、土地取引きの届け出制、の見直し、譲渡所得の課税強化、土地取得金利分の損益通算繰り入れを認めないなどの対策を打ち出していった。 前年の1989年に導入されたも、経済実態に鑑みると導入が遅過ぎたこともあり、結果的にこの金融引き締め策は失敗に終わった。 バブル経済を抑制する目的で実施したや日本銀行による金融引き締め策が、結果的に失敗に終わったことで、逆に景気に悪影響を及ぼした遠因となった。 は「資産価格の高騰で国民の間に格差ができた。 だからバブル潰し・正常化が最大の課題だというのが当時の多くの人たちの認識だった」と述べている。 またバブル崩壊後の政治状況は、のに端を発したの議員辞職、分裂、の旗揚げなどの、誕生によるの崩壊と、その後の細川首相の電撃辞任との短期政権、さらにによるへの政権交代など、政権が転々として混迷を極めており、政府はバブル崩壊後の経済状況に十分な対応ができなかった。 「」も参照 展開 [ ] については、1989年(平成元年)の大納会に、終値の最高値38,915円87銭を付けたのをピークに翌1990年(平成2年)1月から暴落に転じ、と高騰や公定歩合の急激な引き上げが起こった、1990年(平成2年)10月1日には一時20,000円割れと、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。 景気については、景気動向指数 CI をみると、1990年10月をピークに低下傾向となり、1993年12月まで低下した。 地価は、1991年夏頃(東京、大阪の大都市圏では1990年秋頃から、地方圏では1992年、公示価格ではさらに1年遅れの1993年頃)に 、路線価も1992年初頭をピークに下落していった。 1992年春、エコノミストのは「日経公社債情報」で「このままでは戦後最大の不況となる」と悲観的な経済見通しを公表、この見通しがきっかけで株価が急落した(高尾ショック)。 1992年8月、東証に上場されていた株式の時価総額は1989年末の611兆円から269兆円と半分以下となっていた。 1999年以降(1990年代後半から2000年代前半、2000年春頃から2001年にかけての崩壊も含む)の景気が急速に悪化し、企業の倒産や人員削減による失業、新規採用の抑制による苛酷な就職難が発生し、本格的に実害をこうむった。 それまでの好景気は株や土地への異常な投機熱によるもので、実体を伴わないもの、すなわちバブルであったことが明らかになり、振り返って「バブル景気」と呼ばれるようになった。 地価下落・住宅価格下落 [ ] 1980年代末期の日本での不動産バブルは、価格上昇の原資は主に国内のマネーだけであった。 大蔵省が行った総量規制で銀行の不動産向け融資が沈静化し、地価が大幅に下がり始めバブルが崩壊した。 それまで土地神話のもと、決して下落することがない、と言われた地価が下落に転じ、以後、2005年に至るまで、公示価格は下がり続けた。 2005年以降は、一部の優良な場所の公示価格が上昇に転じている。 1998年末の時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1714兆円と不動産全体の約6割を占めていた。 1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している。 1980年末のバブル崩壊以降、日本の不動産の時価は600兆円以上暴落した。 日本全体の土地資産額は、1990-2002年で1000兆円減少した。 バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1400兆円とされている。 内閣府のによると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2456兆円をピークに、2006年末には約1228兆円となりおよそ16年間で約1228兆円の資産価値が失われたと推定されている。 また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以後の価格下落で憂き目を見る例も少なくない。 資産価格が下落したにもかかわらずが高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り替えようとしても担保割れで果たせないなどである。 高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされたが、大半はとして補償を得られずに終わっている。 経済学者のは「バブル崩壊によって日本の地価が下がったが、これもの一環であると考えることができる。 日本の地価が下がってきたことは、グローバリゼーションによって起きた制度の競争、『要素価格均等化の命題』の流れに沿っているという見方もできる」と指摘している。 不良債権拡大 [ ] 景気が後退し、地価・株価が下落すると共に、従前金融機関が多額の融資をしていた企業の業績も悪化し、返済が順調に行えない企業も現れた。 返済に支障が予想される場合にはを行ったり、実際に返済が滞った場合には不良債権に区分し直し、を積み増す必要があるが、これは金融機関の会計を圧迫して経営上の自由を奪うと同時に対外的にも信用を損ねるものとして嫌われ、査定に手心を加えて正常債権と見なしたり、追い貸しをして形の上だけでも本来の債務の返済を正常に行わせるなどして、引当金の積み増しを免れると共に自身の経営を健全に見せる弥縫策がしばしば採られた。 すぐに景気は回復して損失も回復できると期待し、直ちに債権を処分して損失を処理・確定することを躊躇わせたが、この間も混迷の度合いは深まり、不良債権はその数と額を増して重篤化した。 一方で、外部、殊に日本国外からは金融機関が不良債権を隠していると映り、日本の金融システムに対する不信感が抱かれた。 殊に、日本の会計基準が簿価会計であることが、高値掴みした資産の劣化を隠す手段となり、不良債権隠蔽の温床になっていると指摘し、直ちに時価会計に移行して不良債権を詳らかにし、金融機関の経営状況を公開するように迫った。 銀行への資本注入のための公的資金枠は、1999年12月には70兆円にまで積み増すことが決定された。 2002年度の、全国銀行の不良債権の処分による損失の累計額は、81兆円5000億円に達した。 不良債権処理にともなった銀行の損失累計額は、1992-2002年度末で94兆円となった。 全銀行の不良債権の純損失の総額は100兆円という規模となった。 日本のバブル崩壊で発生した不良債権は、約200兆円と言われている。 2001年の調査部によると、バブルの後始末としての不良債権処理は、1997年には終了していたとされている。 田中秀臣は「の銀行の貸し出しの総額よりも、現在(2003年)の不良債権処理額の方が上回っている。 現在の不良債権は、バブルと無関係であり、その後のによって発生した」と指摘している。 大手金融機関の破綻 [ ] バブル崩壊後、、利益供与、巨額損失の隠蔽など金融機関の不祥事が相次いで発覚した。 政府は当初、大手金融機関は破綻させない、という方針を取っていたが、1995年頃より「市場から退場すべき企業は退場させる」という方針に転じ、不良債権の査定を厳しくして経営状態の悪い金融機関も破綻・再生する処理にかかった。 この流れで1995年8月にが銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ。 とりわけ、とも重なった1997年から1998年にかけ、、、、、など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈した。 は地価上昇を見越して土地評価額に対して過大な融資を行い、また、バブル期の融資に出遅れて、劣後順位での担保設定を行わざるをえなかったことから回収が思うに任せず、不良債権が膨らみ、1997年11月、営業継続を断念した。 はバブル期に不動産・リース等、新興企業に積極的な融資を行ったが、バブル崩壊後はへの多額の融資の焦げ付きを中心とする不良債権を抱え経営不振に陥り、1998年10月に制定されたの下で破綻認定され、国有化された。 はバブル崩壊で膨らんだ不良債権をで処理していたが、1998年12月の金融調査で債務超過と認定され、国有化された。 山一證券は1989年末をピークに株価が下落するのに伴い一任勘定で発生した損失を顧客に引き取らせずに、簿外損失として引き受けて、いずれ株価の上昇で損失が解消するのを待ったが、銀行からの支援を失って1997年11月に自主廃業を選択した(実際には破産宣告を受けて解散)。 証券会社にバブル採用された社員たちは、入社数年で会社が倒産し再就職もままならない状態に陥ったものが多かった。 メインバンク喪失 [ ] 上記のように銀行が破綻した場合、当該銀行をとしていた企業も倒産の危機に瀕する。 貸出枠が縮小して行く中で、他の銀行から改めて融資を受けるのは困難であり、景気全般も悪く好業績も望めない中ではなおさら新たな融資を引き出すことは困難となった。 結局融資を得られず倒産に至る企業も多かった。 を再生する過程で、同銀行を買収した投資組合は、取引のあった企業を破綻に追い込んで積極的にを活用して利益を確保する行為に出た。 その結果、、、等が破綻し、暴挙との批判を浴びた [ ]。 住専破綻 [ ] 個人向け融資機能の弱かった金融機関が住宅資金需要に応えて設立した(住専)であるが、バブル期前後には、金融機関自身が住宅ローン市場に参入し、住専は本来のターゲットである住宅ローン以外の不動産事業に傾斜した。 優良な債権を銀行等が占有したため、住専はリスクの大きい物件に傾斜せざるを得なかったとの指摘もある [ ]。 バブル崩壊後は融資先が破綻するケースに加え、担保としていた土地も値下がりして融資の回収が見込めない不良債権が増加し、住専7社のうち6社は破綻した。 破綻に際しては、住専に多額の資金を融資していた農林系金融機関や銀行を保護するためにが注入された(詳細は住宅金融専門会社を参照)。 一方、案件として小粒であり従来は銀行から重視されていなかった個人相手の住宅ローンが、バブル崩壊後の不況期の中ではリスクが低いことから注目を浴び、それに注力する銀行も現れた。 ゼネコン問題 [ ] バブル崩壊に伴う事業の縮小、経営不振に加えて、プロジェクトにかかる代金支払いの保証をしていたことから、一気に負債額が増加し、経営悪化が表面化したが多数あった。 ゼネコンの破綻は雇用不安につながり社会の不利益となるので公的資金を投入して救済すべきとする意見が出る一方で、従前の経営の難点を指摘して「市場から退場すべき企業は退場させるべし」とする論調も声高になされた。 また下請けの会社が、ゼネコンから仕事を受注するに際して、従前は払いで会社信用を前提にした決済を行っていたものを、現金払いで決済するよう要求することもあった。 BIS規制 [ ] 1988年に公表された規制は日本では移行措置のあと、平成4年度(1992年の末)から本格適用されることになっていた。 この規制の適用に際して、金融機関はそれまで大きく広げていた貸し出し枠をを満たすよう縮小する必要に迫られた。 さらに、株価の低迷が追い打ちを掛けた。 安定の形成にも役立つことから、日本の銀行が取引のある会社の株を持つことが普通に行われていた。 ところがBIS規制では、所有する株もとして算入されることから、バブル崩壊後の株価低迷で所有する資産が目減りし、それだけ貸出枠も縮小した。 経営状況を勘案して、海外から撤退して業務を国内に限る邦銀もあった。 貸し渋り・貸し剥がし [ ] 金融機関が、経営に問題がない企業に対しても貸し出しに慎重になり、新たな融資を断ることを「 」。 既存の融資を引き揚げたりすることを「 貸し剥がし」という。 総量規制に加えて、BIS規制、株価の下落が、金融機関の貸出枠に枷をはめて、金融機関はそれまで大きく広げていた貸し出し枠を自己資本比率を満たすよう縮小する必要に迫られた。 これに応じて、過剰に貸し付けていた融資を、半ば強引とも見える手法で引き上げる貸し剥がしも頻発し、景気の悪化に輪をかけた。 突然に全額一括返済を求めるほかに、それまで定常的に融資を繰り返してきたものを一方的に停止するのをはじめとして、「今後も融資を継続するために」「内部処理の都合で」「新規・追加融資を纏めて一つの枠にするために」などの説明をもって融資を一旦引き上げたところで前言を翻して融資に応じない、などである。 貸し剥がしにより運転資金を絶たれて倒産に追い込まれる企業も続出した。 融資の約束を反故にされたとして訴訟に持ち込んでも、多くの場合は次の融資は口約束でなされるため、決定的証拠に欠け、また、銀行の融資の判断が優先されることが大半で、結局泣き寝入りするケースが多い。 その他に、故なく、あるいは些細な理由をもって預金と融資を相殺して引き揚げる、など借り手側から見て強引な手法が採られることもあった。 また、新規の融資にも消極的な姿勢を示し、貸し渋りとの批判もあった。 ただし、銀行に融資を申し込んで断られるとすぐに貸し渋りだという企業経営者が多いが、財務内容が悪かったり、過去に会社が倒産し保証協会が求償権を持っていたりするような場合に融資ができないことをもって貸し渋りだというのは早計である。 貸し渋りというのはあくまで、健全で財務内容に問題のない企業が、一方的な金融機関の都合で融資を受けられない状態のことをいう。 銀行が安易に貸し出しを行い、企業も安易に借り入れたからである」と指摘している。 竹中は「もちろん、銀行の貸し出し態度と借り手側の事情の変化の両方に問題があるが、金利を見る限り銀行が貸し渋りをしたというより借りる側が減った、資金需要が減ったと解釈すべきである」と指摘している。 日銀短観によると、銀行の貸し渋りは1997年半ばから1998年に観測されたが、1993-1996年、1999-2000年には観測されていない。 経済学者のは「1990年代で明らかに貸し渋りがあったのは、1997年、1998年だけであったというのが経済の専門家間の定説である」と指摘している。 貸し渋りによる倒産は、1998年の1年間で約760件となった。 引当金 [ ] 金融機関では融資先の中に不良債権と区分されるものが増えるに従い、引当金(貸倒引当金)を積み増す必要に迫られた。 収益の中から、引当金として確保するべき部分が増えるに伴い、金融機関の経営を圧迫した。 の発足と、による金融機関検査の厳格化により、いっそう貸倒引当金を積みます必要性が増大した。 尚、景気の回復に伴い不良債権であったものが正常債権に区分される様になると、これらの引当金は利益に組み入れられ、以降の銀行の利益拡大の一因となっている。 格付け引き下げ [ ] バブル崩壊後、金融不安が拡大すると同時に、邦銀、日本の企業、そして、に対する、いわゆるも順次引き下げられた。 その都度、国内からこれらの評価が不適切であるとの抗議の声が出された。 ジャパン・プレミアム [ ] 上記の格付け引き下げも相俟って、日本の金融システムに対する信用が落ち、邦銀が海外で資金を調達する際に、通常に較べて高い利率を要求された。 日本国外からの撤退 [ ] かつて日本国外の不動産や資産、企業を購入して進出していた企業が、本業の業績悪化に伴い、撤退を余儀なくされた。 は、の主要部分を、買収時価額を大幅に下回る価額で手放さざるを得ず、大きな損失を出して撤退した。 竹中平蔵は「売り上げが下がっても賃金は下げられないため、企業収益に対する労働分配率が上がってしまった 」「バブル崩壊後も日本の企業は雇用をできるだけ守り、賃金を引き下げないように努力してきた。 労働分配率の上昇は、資本分配率の低下を意味する 」と指摘している。 リクルートワークス調査によれば、大学卒業者に対する求人数はバブル景気崩壊の1991年(約84万人)をピークに1997年(約39万人)まで減少した。 その後は増加している。 また、高校卒業者に対する求人倍率(厚生労働省調査)も1992年の3. 34倍をピークにその後は低下を続け、2003年には1. 27倍と過去最低を記録した。 要因の一つは、が重視されていた当時の風潮の下では在籍している社員を解雇するのが困難だったために、過剰人員を削減する手段を新規採用の抑制に求めたこと。 更に大きな要因は、大晦日にしたことである。 ソビエトがアメリカに敗れたということは、アメリカ型の無規制型経済体制が、ソビエト型の規制型経済体制より優れていると多数の日本人が思い込み、経済・雇用・社会などあらゆる制度をアメリカ型に変えることが推進されたことである。 からは、人口が多いが就職する時期、1970年代後半生まれが小学6年生から高校生、1980年代前半生まれが小学生であった。 このために、競争が激化し、雇用のアメリカ化が推進されたために、就職が極めて困難になった。 俗に言う就職氷河期の到来である。 就職できなかった多くの若者はやとなり、と呼ばれ、彼らの生活・雇用の不安定さ、社会保障の負担が充分できずにから外れ困窮する状態に陥るなど、大きなとなっている。 このため、小渕政権から小泉政権にかけての初頭には記録的な就職氷河期となり、大手企業の「若干名採用」「採用ゼロ」も珍しくなかった。 失業率は、1999年頃からは経営の悪化からを名目とした大規模なも頻発するようになり、戦後最悪を記録し全国平均で5パーセントを超えるに至った。 中途採用については、抑制がピークに達したには有効求人倍率が0. 5倍を割り込んだ。 特に、バブル直前期に民営化された(現)や(現JR)などは、法律によって新規採用ができず、再開された後も余剰人員の削減のためにまとまった退職者が出るまで採用の抑制が行われた。 その結果、採用を抑えられた時期に入社した世代とその上の世代では社員の数に極端な差が生じることになり、各社の社員の年齢構成はいびつな状況となった。 また神話の崩壊により、バブル崩壊以前は、一定の水準の評価を受けている大学を卒業していれば、その大学に見合った就職先が事実上保障されていたといっても過言ではなかったが、極端な採用抑制のために難関大学の卒業生でさえ非常に困難な就職活動を強いられた()。 また、本来であれば採用した新卒に対し、企業内で一定の期間教育を施して戦力として育て上げ、それから現場で業務に就かせることが普通であるが、業績の悪化を受けて教育の余裕もなくなり、新卒に対して「即戦力」たる能力を求める風潮が2015年現在でも大半の企業で続いている。 1990年代から2000年代に段階的に進んだと、それに伴う国際競争の激化も、こうした風潮に拍車をかけている。 公務員人気 [ ] この時期は一転しての人気が非常に高くなった。 民間企業の倒産やリストラが相次ぎ新規採用が絞られるなか、「景気の動向に左右されにくい」という公務員の特徴がバブル期とは全く逆の捉えられ方をされ、その堅実性から公務員を希望する学生が増加した。 他方で長引く不況下でもの心配がほとんど無く、に限っては収入減少の憂き目にも遭わず、やなども充実した公務員が、民間と比べて優遇されていると批判する世論も高まっていった(も参照)。 堅実な公務員職を希望する学生が増加する一方で、不況に伴う税収減少をうけた財政難や、公務員改革に伴う人員削減の影響では新規採用を縮小したため、公務員は非常に狭き門と化した。 あまりの就職難のために、大卒者(特に中堅校以下の大卒者)がその、高卒(あるいは短大卒)の採用枠で公務員に採用された例もあり、2000年代半ば以降や、さらにはなどで次々と同様の行為が発覚して問題となっている。 一時的な雇用情勢回復 [ ] 頃からようやく景気が回復基調に転じた頃、企業を長らく支えてきたのが目前に迫っていた。 本来であれば中堅社員や若手社員が団塊の世代の持つ経験や技術を受け継ぐ立場にあったが、長期に渡る採用抑制のために多くの企業で20-30代半ばの社員が極端に少なく、人員の年代構成が歪んでいるため継承が円滑に行われる状況になかった。 このため企業は急いで人員の確保に走り、2005年度(春入社予定者)には新卒の求人総数はバブル景気期と同程度にまで回復し、2006年度-2008年度(2007年春-春入社予定者)の新卒大学生の求人状況は、「バブル景気時以上」といわれるほどの水準に達した。 企業全般では、中核となる人材を育てる投資の視点から新卒・第二新卒の獲得に走る一方で、上記の「就職氷河期世代」のフリーターを改めてとして雇い入れるには投資の面から非効率的であるとして消極的であった。 に発足した政権()は、こうした世代間の格差拡大の是正の一環として制度を打ち出したが、制度が定着する前に退陣し、再チャレンジ制度は立ち消えになってしまった(後にに安倍が再登板 し、の職を復活させている)。 新卒採用の求人が増えた一方で、新卒の大半はその殆どが不景気の日本しか知らずに育っており、それがゆえに大企業志望で、終身雇用を求める保守的かつ安定志向の傾向にあった。 また求人数や就職率が改善したのも事実だが、企業は公表した求人数そのままの人数は採用しない(採用人数より質を重視する厳選採用)傾向にあったため、優秀な学生は内定を次々にもらうが、そうでない学生は内定を一つもらうのに苦労する「内定格差」が生じることになった。 こうした「売り手市場」は数年続いたが、が顕在化した2008年秋以降は、バブル崩壊時よりも急激な勢いで求人数が落ち込み、就職氷河期へと逆戻りすることとなった。 アウトソーシング(業務請負)・労働者派遣 [ ] の一環として、不況下の経費削減、殊に固定費削減のため企業の業務を担う人員や、業務そのものを企業本体から切り離し、外部から調達する方法も取られるようになった。 人員 人材派遣業会社から人員を調達して、企業の業務に当たらせることで雇用を流動化させた。 企業にとって 派遣は、健康保険や年金や雇用保険のを省略できること、また、定年までの雇用の義務が無いことから、厚生年金に対する負担がないこと、景気に応じて雇用の調整弁として有用なこと、そして、能力に応じた賃金を支払えば良く、に応じた高賃金の支払いを免れる利点がある。 業務 材料・部材、あるいは製品そのものの製造を外部委託()し、設備投資や固定費用の削減を図る。 更に、サーバ管理業務、ダイレクトメール発送業務を委託する事例も増えた。 一方で、これらの供給を行う会社、会社も成立し、業績を伸ばしてきた。 バブル崩壊後のに、曲がりなりにも雇用が確保されたのは、これら非正規雇用による賃金切り下げの効果なのは疑いがない [ ]。 利益を上げても「(国際)競争力の確保」を名目・大義名分として、人材・設備への投資を極力行わず、株主への配当もせず、結果として内部留保がひたすらに積み上げられていく企業さえ見られる [ ]。 何歳になっても、また何年勤めてもいつ解雇されるか判らないため、を作るどころかさえするわけにいかない非正規雇用の若者(特に男性)が増加し、が加速した。 株持ち合いの解消 [ ] 日本では企業間で株を持ち合ったり、銀行が取引のある会社の株を持って安定株主を確保する傾向が強かった。 株価上昇時には、この株も含み益をもたらしたが、株価下落に伴い、逆に含み損となって企業の会計を圧迫する負担要因となった。 とりわけ銀行が株を所有していたことについては、安全と堅実を旨とすべき金融機関が不安定な資産、いわば博打に資金を投じた、といった批判が寄せられた。 また、各々の銀行について、どこまで日経平均が下がれば所有する株が含み益から含み損に転じるかを調査し、それによって銀行の経営の優劣や健全性を論じることも行われた。 また銀行の大半が含み損に転じる日経平均指数を算出し、「そこまで下がることはない」「そこまで下がらなければアク抜けせず株価は反転しない」「そこまで下がったら日本経済は崩壊する」など、各種の意見が出された [ ]。 同時に、株を売却し、相互に持ち合う関係を解消する動きも出てきた。 これは安定株主の喪失を招き、後に株の買い占めによる乗っ取りなどの事例が増えることに繋がった。 株主が次第に存在感を増すようになり、利害関係者の対立を背景に「会社は誰のものか」という議論がなされるようになった。 会社資産売却 [ ] 会社の所有する不動産等が、本当に経営に見合うものかを精査する傾向が出てきた。 保養地等を売却する動きが出たほか、オフィスをより賃料の安い場所に移して固定費を削減したり、本社ビルを売却して獲得した資金で経営の立て直しを図る会社も現れた。 ビルの売却に際して、オフィスは入居したままで、新たな所有者に賃料を支払う形式にする例もある。 土地の評価方法の変化 [ ] それまでは土地神話もあり、土地は単に所有するだけでも資産価値があり、その価値は毀損しないものと思われた。 土地の価格の算定にあたっては、により、今までの取引実績や周辺での土地取引の事例に基づいて値段を決める方法が主だった。 バブル崩壊後は、その土地が賃料等で上げる収益を勘案する収益還元法による評価方法も考慮されるようになった。 変額保険 [ ] バブル景気のもとで地価が高騰するに伴い額も膨らみ、いざ不動産を含む相続が発生すると手持ち資金が無く、相続税を払うことができずに困窮する事態もあった。 これに備える策の一つとして、借金をして変額保険に加入する手法が、盛んに喧伝された。 保険をに似た投資勘定で運用することから、株価が上がる状況下では運用益を借入金返済の一助とできるし、保険金額(即ち資産)が増やせ、また、借金と相続資産を相殺して相続税額が抑えられ、さらに払い渡される保険金には別個の控除枠があり相続税の節税にもなるなど、「良いことづくしの方法」として、銀行から多額の借金をしてでも加入することが勧められた。 最盛期には、払い込む保険掛け金を融資する銀行の担当者と、保険契約を結ぶ保険会社の担当者が、連れだって販売に回ることさえあった。 当時の法律では銀行・保険・証券の間で業務の範囲が厳密に峻別され、銀行が顧客の保険契約にかかわることは戒められた。 バブル崩壊後は不動産の価格が大きく下落すると同時に投資信託が大きな損失を出して受け取れる保険金額が目減りし続ける一方、借金はそっくり残り、場合によっては保険金を含めた全資産がマイナスに転じるなど、契約者を苦況に陥れた。 満期時の返戻金額が元本を大きく下回り、手数料も掛かることから解約にも踏み切れず、株価が下がるにつれて見る見る保険金額が減っていくのを目の当たりにして「私が早く死んだ方が良いということか」と問う被保険者に、担当者が「その通りです」と答えた事例も伝えられる [ ]。 満期時の保険返戻金が、最低額が保証されている死亡保険金を大きく下回った場合には、死亡保険金を獲得するために被保険者が自殺を選択した例もあった。 後に、顧客側からリスクの説明を怠ったとして多くのが起され、だいたいのケースでは顧客と販売者双方の過失を認めるとともに、販売者側にを命じている。 保険会社破綻 [ ] バブル崩壊後の不況を受けて契約の解約が相次いで保険掛け金収入が減少し、また株価低迷を受けて保険金運用実績も思わしくなく、保険会社の経営を圧迫した。 バブル期には貯蓄性の高い年金商品を中心に高い予定利率を約束した商品が販売されていたが、資金運用の実績が予定利率を下回る状態に陥った。 一部の保険会社は最終的に破綻に至り、その顧客の契約が他会社に引き継がれる際には保険金額の削減や予定利率の低減が行われた。 また、逆ざや状態をアピールして、保険会社の都合で一方的に予定利率を削減できるスキームを設けることも検討された。 2005年頃からは保険会社によるやなども表面化することになった。 バブル崩壊後の経済政策 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2007年8月) 経済専門のクラウドソース・コンテンツ『Seeking Alpha』は、日本の低迷の主要因はバブル崩壊であり、政府・銀行の対応の遅さがにつながったと指摘している。 経済学者の、田中秀臣は「日本の長期停滞の真の原因は、バブル崩壊後のを起因とした、マクロ的な総供給に対する総需要の恒常的な不足である」と指摘している。 景気対策として、日本銀行は公定歩合を引き下げ(2001年9月には0. 1991年度版、1992年度版の『』は、株価・地価の暴落が景気に及ぼす効果は小さいと分析していた。 1992年に来日したFRB議長は「資産価格の変動は、金融システムに大きな影響をもたらす。 対策は早いほうがいい」と述べていた。 は「日銀は急ブレーキをかけすぎた。 金利を引き上げ、通貨供給量の伸びを急激に抑え、深刻な景気後退を引き起こしてしまった。 日銀は誤りを正すのが遅くて、リセッションを長引かせ深刻なものにさせてしまった」と指摘している。 高尾義一は「資産価格の上下の状況変化を読めず、政策が後出に回った」と指摘している。 は「地価が下がりすぎると金融システムに不安が生じることが明確に理解されていれば、大胆な緩和をしたほうがよいと判断されたはずである。 緩和するテンポが遅くはなかったが、を警戒していなかった分、普通の緩和しかできなかった。 ただ、当時の社会的雰囲気の中では、金融システムの問題がわかっていたとしてもリアルタイムで大胆な緩和の判断を下すのは難しかったであろう」と指摘している。 当時の政府は明らかにバブル崩壊(資産デフレ)の負の影響を過小評価していた」と指摘している。 田中秀臣は「大蔵省(財務省)・日本銀行の両政策当事者の協調政策は、1990年代以降機能していなかった。 1996-1998年の政権では緊縮財政と、その後の政権ではの拡大とゼロ金利政策の解除であった」と指摘している。 田中は「バブル崩壊以降の日銀は金融を引き締め続けた」「バブル崩壊後の持続的な金融引き締めスタンスが原因で、人々に期待が定着してしまった 」と指摘している。 経済学者のは「現実に採用された政策は、株価の買い支えや土地の買い上げ、地価税の凍結などである」と指摘している。 銀行など金融機関の不良債権問題が深刻となって以降は、早期に財政資金を投入して破綻した金融機関の救済を行うべきであったと考えられている。 しかし、この問題でも、住専処理に6850億円の資金を投入するという日本国政府の1996年度予算案に対して、マスコミなどは、金融機関に失敗の責任を取らせずに救済のために税金を投入すべきではないなど、強く反発することとなり、国会も混乱した。 後から数十兆円の資金が投入されることになったことを考えれば、早期に公的資金の注入ができれば問題の拡大を抑制でき、結局は国民の負担も少なくて済んだのではないかという見方も多い。 原田泰は、• 公的資金を投入することに本当に世論の反発はあったのか• 早期に公的資金を投入していれば本当ににならずにすんだのか• 世論の反発を避けて金融機関を救済したかったのなら、なぜ金融緩和という簡単な方法を採用しなかったのか という3つの疑問点があるとしている。 バブル崩壊後の低迷からの脱却局面では、景気の回復傾向が見られた際に、財政・金融による景気刺激的政策から、景気抑制的政策への転換を早く行いすぎる、という失敗を繰り返した。 1度目の失敗は、財政政策の失敗である。 1993年10月を底に景気は回復する。 ところが、同年にはが発生したことや、年末には金融機関の経営破綻が続いたことなどから、景気は極端に悪化することになった。 2度目の失敗は、金融政策の失敗である。 アジア通貨危機の混乱が収まると、1999年1月を底に景気は回復しはじめ、日銀は政府の反対を押し切って8月にを解除した。 しかし、米国でITバブルが崩壊すると、輸出の鈍化から2000年11月をピークに、景気は急速に悪化し、2001年3月には、再び実質的にゼロ金利政策に戻らざるを得なくなった。 同時により金融緩和的なの導入を余儀なくされた。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 197。 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、114頁。 田中秀臣『デフレ不況 日本銀行の大罪』p. 153、、2010年。 116、、2008年。 編『検証バブル 犯意なき過ち』p247、日経ビジネス人文庫、日本経済新聞社、2001年。 岩田規久男 『景気ってなんだろう』 筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2008年、117頁。 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、273頁。 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、141頁。 田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、154頁。 三橋貴明 『本当はヤバくない日本経済 破綻を望む面妖な人々』 幻冬舎、2009年、110頁。 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、196頁。 三和総合研究所編 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、206頁。 三和総合研究所編 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、27頁。 三橋貴明 『民主党政権で日本経済が危ない!本当の理由』 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